近代グラフのはじまり / ウィリアム・プレイフェアの発明

William Playfair History Charts Graphs DataVisualization

皆さんはグラフと聞いてどんな形をイメージしますか?

きっとほとんどの人は棒グラフや折れ線グラフ、円グラフをイメージするのではないでしょうか?

ではそれらのグラフはいつ頃からあったのかを知っていますか?

今では当たり前となっている数値をグラフ化するという行為ですが、いつできたのか?そもそも誰がどんな目的で作ったのか?また使い方は現在と同じだったのか?といったことはほとんど知られていないと思います。

ということで今回はグラフのはじまりについての話です。

先に上がった棒、折れ線、円の3つのグラフの起源はグラフの歴史上最も古いものです。

今から230年以上前の1786年、英国で出版された "The Commercial and Political Atlas" に、細長い長方形とマス目の上を横切る折れ線で統計の数値を表現したものが登場するまで、私たちが普段目にしているグラフというモノは存在していませんでした。

またその15年後の1801年に出版された "Statistical Breviary" という書籍には、今度は円形のグラフがはじめて掲載されました。

この数十年という短い期間で3つのグラフは一気に誕生しました。というのもこの2冊の書籍が同一人物によって出版されたものだからです。つまり今日まで依然として使われ続けている3つのグラフはたった1人の人物によって創り出されたわけです。

棒グラフ、折れ線グラフそして円グラフを生み出したのが今回取り上げる人物、ウィリアム・プレイフェア(William Playfair, 1759-1823)です。

近代グラフの発明者、ウィリアム・プレイフェア

ウィリアム・プレイフェアは18世紀後半から19世紀前半を生きたスコットランド人です。彼は政治経済の学者を生業としていましたが、その他にも多くの職業を経験しています。エンジニア、製図師、機械工、会計士、銀細工販売、銀行業者、投資ブローカー、翻訳家、ジャーナリスト、編集者、その他に詐欺恐喝容疑の犯罪者となったこともありました。

現在では近代グラフの生みの親として偉大な功績を残したと言われていますが、彼が評価されるのは彼の死後ずっと後のことでした。これには彼の波乱万丈な人生が少なからず影響しているようです。

ウィリアムの波乱万丈な人生

プレイフェアは1759年スコットランド、ダンディー郊外の街リフで牧師の父の4人目の子供として生まれました。

兄であるジョン・プレイフェア(John Playfair, 1748-1819)は著名な数学者で、ウィリアムが幼少期に父が他界してからは、ジョンがプレイフェア一家を支えていました。
またもう1人の兄ジェームズ・プレイフェア (James Playfair, 1755-1794) もWikipediaに載るような著名な建築家でした。
華々しいプレイフェア一家の中にあってウィリアムも素晴らしい功績を残しましたが、彼の人生はとりわけ波乱に満ちたものでした。

1777年、18歳になったウィリアム・プレイフェアはバーミンガムで "Boulton & Watt" という会社で製図工兼アシスタントとして働き出します。この Watt というのは蒸気機関の父であり、単位 ”ワット” の由来となったジェームズ・ワットの会社です。ここでの製図工としての知識はその後のウィリアムのエンジニアとしての技術やグラフのアイデアに多いに影響を及ぼしたと想像できます。当時の最先端の会社に勤め、今後の人生においてこの上なく素晴らしいスタートを切ったかと思いきや、5年後の1782年にはワットの会社を辞めてしまいます。そしてロンドンで銀細工の商売を始めます。しかしこの事業はすぐにうまくいかなくなり、1787年にはロンドンを離れることになります。目指したのは自分のエンジニアとしてのスキルを発揮できる場所で、当時変革の時を向かえていたパリでした。

さてウィリアムはこのパリに渡る前年の1786年、最初のグラフが掲載された"The Commercial and Political Atlas"をロンドンで出版します。パリに渡るとウィリアムはこの自分の書籍を見つけます。彼曰くパリでの評判は上々で、当時のフランス国王、ルイ16世も読んで関心を寄せていたようです。その証拠にルーブル美術館で行われた国王出席のパーティーにも呼ばれたと自ら記しています。本当かどうかはわかりませんが、どちらかというとロンドンよりもパリでの方でこの書籍は人気だったようです。

その時のパリは歴史上重要な出来事である、フランス革命がまさに起ころうとしている時でした。その発端となった事件、バスティーユ牢獄へのパリ市民の襲撃事件が起こった時、スコットランド人のプレイフェアもなぜか参加していたと言われています。

それほどの愛着があったフランスですが、1793年戦争が激化するとプレイフェアもこれ以上留まることができなくなりフランクフルトへと移動します。そこで腕木通信という当時開発されたばかりの技術をエンジニアとして、イギリスのヨーク公に送っていたといいます。本人の書紀では何かと大物人物や大事件に関与しているようですね。

程なくしてロンドンに戻り、今度は銀行業に手を出しますがこちらもすぐに破綻してしまいます。しかし1790年中盤あたりから彼はメインの仕事を執筆活動にシフトしていったので、このあたりから自国イギリスとフランスの政治経済に関する書籍を年1冊のペースで出版していきました。
その流れの中1801年に最初の円形グラフが掲載された"Statistical Breviary"も出版されました。

その後もウィリアムの生活は順調満帆とは行かずフランスに編集者として舞い戻った後も名誉毀損で訴えられ1818年には3ヶ月の禁固刑を言い渡される有罪判決が下ります。服役を逃れるため彼は再びロンドンに戻り、その後も精力的にいくつかのグラフを含めた政治経済に関する書籍を出版しますが、程なく1823年ロンドンにてその人生の幕を下ろしました。

バーミンガム、ロンドン、パリ、フランクフルト、ロンドン、パリ、ロンドンと住む場所を何度も変えていっただけでなく、その場所で常に新しい仕事をする渡り鳥のような生活はまさに波乱含みでした。

さて生い立ちが少し長くなりましたが、ここから本題の彼のグラフを見ていきましょう。

棒グラフ / Bar graph

まずこちらが1786年出版された "The Commercial and Political Atlas" の中で登場した最初の棒グラフです。

スコットランドの輸出入について表したもので、上から貿易額の少ない順に並べられており、各国2本の棒は、上が輸入、下が輸出を表しています。下部のアイルランド、ロシア、アメリカ、西インド諸島との貿易が大半を占めていたことがわかります。

折れ線グラフ / Line graph

"The Commercial and Political Atlas" には44個の統計グラフが掲載され、前述の棒グラフを除いて残りの43個は折れ線グラフだったようです。(*1 / p33)

デンマーク・ノルウェーと英国の間の貿易輸出入の関係です。

オレンジ線が輸入、赤線が輸出線です。1750年半ば頃過ぎから、輸出額が一気に上がったことが一目でわかります。

こちらは国債利息の動きです。

縦線の多くは戦争が起こった年で区切られており、その都度動きがありことがわかります。また線の下部に色を塗り面積で量も表現しようとしています。

下記は1824年発表のモノです。
株価やパンの価格などと戦争の関係を表しています。

青線が株価、黄線がパンの価格です。
ちょうど真ん中あたりからフランスとの戦争が始ったため、それまでおとなしかった各線が激しく動き始めたのがわかります。

円グラフ / Pie chart

1801年出版された "Statistical Breviary" に掲載された円グラフがこちらです。

ヨーロッパ諸国の人口、歳入に関するグラフです。
初めのグラフにして、すでに円の大きさの違いで各国の規模を表しているのが驚きです。左の一番大きな円はロシア帝国です。

以下オスマン帝国の領土面積について表したものをよく見てみると、右上にヨーロッパ、下部にアジア、左上がアフリカと配置され円の中心から分けられています。今の円グラフと全く変わりませんね。

比較して

プレイフェアが作り出したグラフと現在のグラフを比較すると、性質的な面ではほとんど変わらずに現在まで至っていることがわかります。
200年以上大きな変化が見られないという事実は、いかにプレイフェアの作り出したグラフがほとんど完成されたものだったかということを表しています。また同時に、今後もこの3つのグラフに大きな変化が起こる確率はきっと低いでしょう。

プレイフェアは様々な職を転々とする一方、生涯を通じて20冊以上の著書を出版してきました。これは2、3年に一冊は出版しているペースです。このことからも執筆は彼にとってのライフワークだったと想像できます。その中で彼は早い段階から、自ら創り出したグラフを活用して統計というものを表現してきました。それは探究心だったのか、何かの信念から来るものだったのかはわかりませんが、様々な職を転々とする一方、生涯に渡って続けたことに、この活動こそが彼の本当にやりたかったことだったように感じます。

さて19世紀になると彼の功績はやっと認められるようになり、グラフの発明者として多くの書物に名前が載ることになりました。その他にも銀加工で特許を持っていたり、船首の修復や農業工具の進歩においてもエンジニアとして貢献をしているようで、波乱に満ちた人生ではありましたが、華々しいプレイフェア一族において、彼もまた例外ではなかったようです。

では、後期の著書の中の統計グラフを最後にご覧ください。

データビジュアリゼーションなどの狭い分野以外では中々目にすることがないプレイフェアですが、彼のグラフ以後も様々な種類のチャートやグラフが誕生しても、ここに記した3種類のグラフはこれだけの年月が経った今でも最も身近であり、多くの場所で利用され続けています。この実状こそ彼の功績の大きさを表す何よりの証拠ではないでしょうか。

参考書籍
"インフォグラフィックスの潮流: 情報と図解の近代史" - 永原 康史 / amazon.jp
*1 "The Visual Display of Quantitative Information" - Edward R. Tufte / amazon.jp


参考サイト
"近代的グラフの発明者ウィリアム・プレイフェア"
"Ian Spence's William Playfair Page"
"William Playfair" - Wikipedia(En)
"William Playfair" - Wikimedia Commons
"The Scottish Scoundrel Who Changed How We See Data" - Atlas Obscura
"William Playfair Founds Statistical Graphics, and Invents the Line Chart and Bar Chart"
"Playfair, William" - Encyclopedia of Mathematics