オットー・ノイラートの活動 / アイソタイプを紐解く

サインデザイン ISOTYPE Otto Neurath Rudolf Modley 勝見勝 ピクトグラム

今回は、ピクトグラムに関する記事第2弾として「アイソタイプ」システムを考案した、オットー・ノイラートという人物について調べていこうと思います。

まず最初にオットー・ノイラートの略歴を追っていき、次にアイソタイプシステムについてのイメージから制作に携わったメンバー、具体的なルールなどを見ていきましょう。最終的に、アイソタイプとは実際どういったものだったのか、目的はなんだったのかといったことを探っていきたいと思います。

目次
・オットー・ノイラートとは?
・アイソタイプのイメージ
・アイソタイプを作り上げたメンバー
・アイソタイプのルールと技法
・アイソタイプのコア、トランスフォーメション
・ルドルフ・モドレイとの関係
・ノイラートが日本に与えたもの
・アイソタイプの目指したもの

オットー・ノイラートとは?

オーストリア出身の社会経済学者という肩書を持つオットー・ノイラート(Otto Karl Wilhelm Neurath, 1882-1945 (以下ノイラート)) は様々な分野で活躍したため、一言で語るのが非常に難しい人物です。

まず彼はウィーン学団の中心メンバーでした。ウィーン学団と聞いてピンとくる方はおそらく科学や哲学に精通している方でしょう。論理実証主義[Wikipedia - JP]という、科学の中でも実証と経験を重要視する思想運動で、ウィーン学団は当時の社会に大きな影響を与えたグループです。

今回はこちらの話ではなく、彼が考案した視覚言語のアイソタイプについての話をしていきます。ノイラートはウィーン学団での活動の他に、視覚言語のアイソタイプという技法を考案した人物として、デザインの分野で広く知られています。

まずはオットー・ノイラートの略歴をからはじめたいと思います。ノイラートが歩んだ道を辿って、アイソタイプとはどんなルールだったのかを具体的に探っていきたいと思います。

アントニオ・ガウディがサグラダ・ファミリアの建設を開始した1882年(明治15年)にノイラートはウィーンで生まれました。経済学者の父の影響で、幼い頃から多くの書物の中で育ったノイラートは、1902年にウィーン大学に入学、専攻は経済、歴史、哲学でした。その後ベルリン大学移った後も、経済学や歴史学を学びました。

ベルリンからウィーンに帰国後は1年間の兵役に就き、平行して新ウィーン商業学校の教員として、政治経済学の教鞭を執ります。その後、戦争と経済に関する論考「戦争経済」を1910年に発表し戦争を通して、経済の改善点を探っています。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、翌15年に徴兵され、最初は後方任務に従事しますが、その後は国防省の戦時経済部門に配置されます。こうした戦争経済に関する一連の研究から、ハイデルベルク大学の教授資格を得た後、自ら志願して、1918年にライプツィヒに設立された戦時経済博物館の館長となります。この博物館は統制経済に関する研究を市民に向けて啓蒙活動することを目的としたものでした。この博物館での仕事はこれからのノイラートの活動の原点に当たる出来事となります。

戦争の終結と共に博物館は解体され、軍から除隊したノイラートはドイツ、バイエルンの社会主義政権受立の際に、本格的に社会科構想を提案し、バイエルン中央経済省にて役職を得ます。しかし程なく革命が起こり、鎮圧と共にノイラートは拘束され、騒乱の中本国へ送還されることとなり、地元ウィーンへと戻りました。この時ノイラートは37才でした。

帰国したノイラートは共同経済研究所に所属することになり、1920年に研究所の事務局長になります。この研究所で最初に関わった仕事が、戦後のウィーンでの住宅建設運動の組織化とその推進でした。ウィーンでは戦中から住宅難と共に食糧難にも直面していたため、小さな畑のある簡易住宅を建設しようという運動、通称ジードルンク運動が主要な活動でした。ノイラートたちはこの運動を組織化するための計画案の作成、それと共に大衆への認知と理解を求めた活動のために動くことになります。その中でも最も大きな活動はウィーン市庁舎で行われた大規模な展覧会でした。ノイラートはこの展覧会で統計データの視覚表現を試み、多くの関心を得ました。

手応えを得たノイラートは、展覧会が終わった後も、これらの資料の必要性をとくために、恒常的に展示する施設をウィーン市へ要請しました。その結果、住宅・都市計画博物館(通称ジードルンク博物館)が建てられることとなり、ノイラートが館長に就任します。その後ジードルンク運動自体が行き詰まりをみせると、ノイラートは仕事の主軸をこの運動から、博物館での啓蒙教育に本腰を入れ始めます。それとあわせて、博物館として広い範囲で活動できるように1925年に名称をウィーン社会経済博物館 (Gesellschaft und Wirtschaftsmuseum in Wien)(以後ウィーン博物館)に変更しました。

ウィーン博物館は従来の博物館にあるはずの、展示物としての恒常的な「モノ」を持っていませんでしたが、それを逆手にとってノイラートは新しい博物館の形を作っていこうとしました。その中核をなすのが、シードルンク運動の展示物で使用した、グラフィカルな統計図だと考えていました。

あわせて、社会経済という教育的な主題を市民へうまく訴えかけるのに、ノイラートが着目したのは娯楽性でした。当時の娯楽の中心であった、映画やイラストレーションを教育の形にも取り入れようとしたのです。それまでの教育では文字だけの伝達手段によるところがほとんどだったため、ノイラートの考えはまったく異なるものでした。またこういった統計図には観る人が読解できるような、一定のルールが必要だと感じていたノイラートは、そのようなルールを考案します。このまとめられたルールを彼は「ウィーン・メソッド」と名付けました。

初期のウィーン博物館の主な仕事内容はウィーン市や、商業組合などの広報活動でしたが、ノイラートはもっと教育分野に向けた活用をしたいと考えていました。実際に1927年頃から学校教育との連携がはじまり、ウィーン博物館が郷土教育のカリキュラムを請け負い、子供達(11歳)へウィーン・メソッドを使用した図像統計を作成しています。

ウィーン博物館の活動の中でもハイライトと呼べる仕事が、1930年に出版された"Atlas Gesellscaft und Wirtschaft" / アトラス『社会と経済 』の制作です。この案件はノイラートが兼ねてからやりたかったことが、存分に詰まった依頼であったと共に、それまでの行政の広報活動とは異なりノイラートの主張がかなり反映されたものでした。そして重要なのは、制作過程を通して、シンボルや色彩、地図表現、フォーマットなどのデザイン、制作工程が固まり、ウィーン・メソッドの大部分が、このプロジェクトを通して出来上がったことです。

またこの時期にノイラートは、ポール・オトレ (Paul Otlet, 1868-1944) [Wikipedia - JP] という人物と知り合い、大きな影響を受けます。オトレは情報学分野の専門家であり、平和活動家でもありました。彼は『ムンダネウム』計画[artscape]という世界中の情報を集約した、大学と博物館と図書館が一体になったような、知識の中心機関を作ろうとしていました。この計画には、ル・ゴルビジェも携わっています。ノイラートは知識の世界都市というムンダネウム構想に強く関心を持ち、オトレの元を訪れています。

その後二人は意気投合し、世界の情報をまとめた百科事典、『普遍文化アトラス』を作成しようと試みます。これはアトラス『社会と経済 』の拡大版と言え、ノイラートはこの仕事にかなりの熱を入れて取り組みます。合わせて、ウィーン博物館の世界展開を見据えて、博物館の世界部門に、“ムンダネウムウィーン”という名前をつけています。

しかし、1933年ドイツでナチスが政権を握り、オーストリアを併合するとウィーンに留まれなくなります。その結果、34年にオランダ、ハーグへ亡命することとなり、残念なことにこの時点で、活動基盤であった博物館を失い、オトレとの仕事もたち消えてしまいました。資料や道具もほとんど手放して来たため、ハーグでの再出発はほとんど何もない状態でのスタートでした。

ノイラートはウィーンを離れたことにより、心機一転「ウィーン・メソッド」の名称を変更しようと考えます。メンバーのマリー・ライデマイスターの助言もあり、新しい名称は「アイソタイプ / ISOTYPE」と名付けられました。

1936年に「アイソタイプ」の名を冠して出版された "International Picture Language - the first rules of ISOTYPE" 『国際図象言語 - アイソタイプはじめてのルール集』ではじめて「アイソタイプ」が世間に公表されることになりました。この著作は「アイソタイプ」という名称を公表した最初の著作であると同時に、「アイソタイプ」の意味である「国際図象言語」つまり「国際絵ことば」という新しい言語の概念を発表したものでした。

オランダでの生活はこの本の出版と、いくつかの展覧会の仕事に携わりますが、ほどなく1940年にドイツ軍がオランダに侵攻して来たことによってまたもやノイラートはハーグでの生活を妨げられます。今度はイギリスへと亡命することになり、亡命後はオックスフォードに拠点をかまえることになりました。この時にメンバーであり、ウィーン時代から常に行動を共にしていた、マリー・ライデマイスターと結婚します。ノイラートは前妻をハーグ時代に亡くしていましたのでマリーは後妻にあたります。

イギリスに渡ってすぐは、オックスフォード大学の講義などを受け持ち、アイソタイプの活動は1942年に「アイソタイプ研究所」が設立されるのを待つことになります。研究所での主な仕事は、映画のためのアニメーション・チャート制作と書籍の図版制作でした。ノイラートはこの頃、アイソタイプとアニメーションの可能性を探っていたのです。イギリスに移った後は、戦争も終戦に向かっていたこともあり、ノイラートの周りにもやっと平穏が訪れつつありました。しかしそれも長くは続かず、終戦後まもなくの、1945年12月22日にノイラートは急逝してしまいます。

道半ばであった、「アイソタイプ」の活動ですが、ノイラートの死後も、マリーがアイソタイプ研究所の仕事を受け継ぐ形で、その後の普及に尽力しています。

アイソタイプのイメージ

アイソタイプという言葉がおおやけに初めて登場したのは、1936年に出版された "International Picture Language - The First Rule of Isotype" という本からでした。この時期ノイラートはすでにウィーンを離れ、オランダのハーグへと移っていた時期です。それまでの「ウィーン・メソッド」という名称を変更し新たなスタートを切るにはいい機会だったのでしょう。

ISOTYPE とは( “International System of Typographic Picture Education”)の頭文字をとったもので、日本語にすると『国際図像言語』や『国際絵ことば』と訳せます。ノイラートは「アイソタイプ」という名前から、そのシステムの方向性をはっきりと示したことになります。

出版された『International Picture Language』の内容は「アイソタイプ」を解説しており、主に図像つまり、ピクトグラムを言語のように扱うにはどのように作成し、また配置すれば良いかといったことが書かれています。といってもそれらを深く掘り下げて説明されているわけではないため、「アイソタイプ」導入のためのコンセプトブックのような役割を果たしていました。この本は「アイソタイプ」について単独で出された本ではなく、英国の言語心理学者、C. K. オグデンが提唱した「ベーシックイングリッシュ」(基礎850語の中から単純化された文だけで構成される国際共通語を目指したもの [Wikipedia - JP]) を解説するシリーズ本の一つとして出版されたものでした。

この「ベーシックイングリッシュ」とのコラボレーションは次の"Basic by Isotype" (1937発行)へ続きます。この本では、ベーシックイングリッシュを説明する補助言語として「アイソタイプ」が活用されています。ここでは文章らしい文章はほとんど出てこず、ベーシックイングリッシュに含まれる単語と短い文、それに関係するアイソタイプシンボルの組み合わせで成り立っています。

「アイソタイプ」自体を説明する本はその後出版されなかったため、これらの本が「アイソタイプ」のイメージを決定づける役割を果たしました。このあたりが、現在のアイソタイプ=ピクトグラムの祖、という扱われ方をされている要因かと思います。確かにノイラートはシンボル(ピクトグラム)に関して一定のルールを設けています。ただ実際のところノイラートが「アイソタイプ」で目指したものは図像表現に関するもっと広範囲に渡る技法の研究であり、それを普及させていくことでした。

アイソタイプを作り上げたメンバー

「アイソタイプ」の作業の流れは「ウィーン社会経済博物館」時代のスタッフ達が、それぞれの仕事を通して確立していったものです。ここでは制作時の主要なメンバーを紹介していきます。
作業自体は完全に分担されており、主に下記のように分けられていました。

・専門家
・デザイン
・トランスフォーメーション
・工房(実作業)

具体的には、まず専門家からの統計データをトランスフォーマーが「変換」し、それをもとにデザイナーがシンボルのデザイン原画を作成します。さらにその下絵をもとに工房で版木が彫られ、シンボルが複製されます。これらと文字などの素材を切り抜き、パネルに貼り付けて完成させていきます。ノイラートはこうした作業全体を統括するディレクターでした。

ゲルト・アルンツ(Gerd Arntz, 1900-1988) [Wikipedia]

Source: http://www.gerdarntz.org

1928年からデザインチームにゲルト・アルンツが加わったことは、ウィーン社会経済博物館とウィーン・メソッド(当時)にとってのターニングポイントでした。アルンツがデザインした印象に残るシンボルの数々は、現在までアイソタイプというブランドのエンブレムのような役割を果たしています。

アルンツはデュッセルドルフ出身の芸術家で、当時「ケルン進歩派芸術家グループ(以下ケルン進歩派)」に属していました。ケルン進歩派は、ケルン中心に活動していた前衛芸術家集団で、特徴は明確な左翼的政治態度と作品における独特の造形様式でした。

ノイラートは美術評論家の紹介で1926年に対面しており、この時からアルンツの作風にとても興味を示していました。アルンツはその時のことをこう回顧しています。

「GESOLEI」と呼ばれた衛生博覧会がデュッセルドルフで開催された1926年の春、私はウィーン社会経済博物館の館長オットー・ノイラート博士の訪問を受けた。ー中略ー ノイラートが特に関心を持った作品は、木版画「安息と秩序」のような、水平に並べられ、垂直に積み重ねて表現された類型化された人物像であった。 *2p32

Source: http://www.gerdarntz.org

ノイラートがこの作品に興味を示したのは、作品が可能な限り遠近法を避けるようにデザインされていたこと、そして作品自体から漂う芸術家の個性が抑えられていたことでした。図象統計において主張しすぎるシンボルは返って邪魔になってしまうため、デザイナー選びにはこの加減が重要でした。個性をある程度保持しつつも主張しすぎないデザインが可能な芸術家を探していたノイラートにとって、アルンツはまさに打って付けの人物でした。

またアルンツはもう一つの重要な貢献をしています。それはシンボルの制作技法です。版画家であるアルンツは、リノカットによるシンボルの制作を提案しました。リノカットとはコルクや木粉などを混ぜたリノリウムという板に彫刻刀を彫って行く版画技法です。丈夫で削りやすく保存に適し、安価に制作することができます。また複製ができるので一定のクオリティも保てます。このおかげで、リノカットを導入後には、1,000以上のシンボルが作成されることになりました。

マリー・ライデマイスター(マリー・ノイラート)(Marie Reidemeister(Neurath),1898-1986) [Wikipedia]

ゲッティンゲン大学で数学を専攻していた1924年、マリーは数学者の兄を介してノイラートに出会います。この時新しい博物館、つまり「ウィーン社会経済博物館」設立の話を聞いた彼女は、その構想に関心を抱き、翌年の大学卒業後に博物館の職員となります。最初は博物館での事務作業が中心でしたが、徐々にチャートのアイデアを任されるようになります。その仕事は後にトランスフォーメーションと名付けられ、マリーは「トランスフォーマー」という役回りで各プロジェクトの中核を担当することになっていきます。

ハーグへ事務所が移ってからも帯同し、ノイラートを助けました。ちなみにこの時期ウィーン・メソッドの新しい名前をアイソタイプと名付けたのはマリーのようです。そしてイギリスに亡命後まもなく、マリーはノイラートと結婚します。ノイラートは前妻と死別していたため再婚でした。ただ結婚生活は長くは続かず、イギリスに移ってしばらくするとノイラートが急逝してしまいます。それは5年という短い結婚生活でした。それでもマリーはノイラートの意思を継ぎ、その後もアイソタイプ研究所の運営を彼女が職を引退する1971年まで続けていきました。

ルドルフ・モドレイ(Rudolf Modley, 1906-1976) [Wikipedia]

ウィーンに生まれたモドレイは大学在学中にノイラートの博物館で働き、卒業後は生活の拠点をアメリカ、シカゴへと移しました。ノイラートはモドレイに「ウィーン社会経済博物館」と「ウィーン・メソッド」普及のためのアメリカでの請負窓口として働いてもらうように要請します。そこから引き続きノイラートの元で働くことになりますが、ほどなくしてモドレイが独自の活動を始めたため、二人は袂を分かつことになります。
モドレイに関しては後述の章で詳しく紹介します。

アイソタイプのルールと技法

アイソタイプ技法の大部分は、ウィーン・メソッド時代に出来上がったものです。それは当時「"アトラスー社会と経済”the atlas Gesellschaft und Wirtschaft」という本の依頼があり、この仕事を通してウィーン・メソッドのルールや技法が固まっていったからです。

ここからは「社会と経済」が出来上がる過程で行なわれていた、具体的な技法を見ていこうと思います。

・シンボル(図記号)について

まずはシンボルについての特徴です。いわゆるピクトグラムのことですが当時はまだシンボルと呼ばれていたのでここでもシンボルと表記します。ノイラートはシンボルをこう言及しています。

図記号(シンボル)は、可能な限り言葉の助けを借りずに、それ自体において明確でなければならない。つまり、"生きた記号”なのだ。ひとつひとつ異なっているため、二度目に見たときにも、それが何を指し示しているのか疑問に思うことはないだろう。また、文字のように行に並べることができるぐらいシンプルであるべきだ。図記号は、同じ図が並んでいても観る人が飽きないような形状でなけれぱならない。 *1p40

歪みを避けるために遠近法を極力排したシンプルで単純なシンボルを作成することで、文字の助けをなるべく借りずに、目で理解することを容易にするとともに、シンボル同士の組み合わせる際にもシンプルなシンボルがより多様な組み合わせを可能にしました。またコンセプトに基づく多くのアイコンの作成には、アルンツのデザインが大きな貢献を果たしました。

シンボルを組み合わせる
シンボル同士を合わせて、新たな意味を持たせることを積極的に行なっています。こうした単語または文を作るという技法は漢字のような感覚を覚えます。例えば「靴」と「工場」のシンボルで「靴工場」、「コーヒー豆」と「船」、「コーヒー豆」と「炎」でそれぞれコーヒー豆の輸出入と廃棄を表しています。

このような組み合わせでは「人」と「ドア」を並べて出入口を表す場合などは、状況によって「出る」のか「入る」のか限定されないため、アイソタイプの意味である、文字言語の代わりとして用いるのは限界があるように見えます。しかしノイラートはこの部分を十分自覚しており、こう記しています。

図像言語の使用は大変限定されている。それは観点の交代や感覚や命令など目的に対応した性質を持っていない。それは通常の言語と競合するのではなく、その限られた範囲の中で、通常の言語の助けとなる *2p157

また、アイソタイプシンボルの考えは、紙の上などの2次元空間で利用されるだけではなく、3次元空間での利用に役立てる場合も想定されます。例えば現在でいう「非常口」のアイソタイプが建物から出ることだというのは、自分の位置から理解できるように「出入口」などのシンボルの意味はその置かれている状況と位置関係によって理解が可能であるということです。

・色彩について

人は微妙な色の違いには鈍感であるため、多くの色によって分類することはあまり意味がないと言っています。それよりも色数を絞り、色の差が大きいもの同士を組み合わせることを推奨しています。「社会と経済」では、青、緑、黄色、オレンジ、赤、茶、黒、グレーの8色を基本にして構成されています。また「識別のための本質的方法」として特定のテーマをもつシンボルには一定した色をつけるということを提案しています。例えば最も古い原始的なもの(農業、林業、原始文明など)は"緑”、古い古代的なもの(貿易、衣料、服飾業、古代経済など)は"青”、新しい近代的なもの(製鉄工業、機械工業、都会など)は"赤”といったようにアイソタイプでは一貫して、これらを統一させています。

・文字について

書体に関しても検討されています。当時ドイツを中心に流行していた、同時代のグラフィックデザインの新傾向である、「ニュー・タイポグラフィ」の考えが反映されています。この考えを提唱した、ヤン・チヒョルトとも交流があったことがわかっており、その関係もあってか、当時出たばかりの書体である、Futura(フーツラ、1927年リリース)は1929年以降のチャートに登場するようになり、この書体がノイラート制作物のトレードマークの一つとしてブランドイメージを確立していく一因となりました。

・トランスフォーメーションについて

明文化されることのなかったウィーン・メソッドの重要な特徴として、「トランスフォーメーション」とのちに呼ばれることになる、データの整理、構成、表現するまでへの決定作業があります。ウィーン・メソッドを発表以降、統計図の需要が高まっていた事も合間ってウィーン・メソッドを模倣したものが多く出回りました。しかしこういった図像統計の多くをノイラートは批判しています。その理由としてトランスフォーメーションの欠如から来るものだと指摘していました。次章でトランスフォーメーションについて詳しく書いていきます。

・統計図作成のルール

ウィーン・メソッド自体は統計図など教育的観点を目的として編み出されたものです。そのため、アイソタイプには統計図作成時のルールや技法が多く残されています。

○シンボルの数を数量によって表す

これはウィーン・メソッドがそれ以前の統計図と違うものだという事を最もよく表すものです。それまでは数量の比較を大きさで表すものが主流でした。ノイラートは、はじめからこの数量を大きさで表す方法に疑問をもっており

大きなシンボルは、見るべきなのがその高さなのか、領域なのか体積なのか何も語っていない *2p32

と述べています。

○時間軸を縦軸としシンボルの配列を水平方向にする

書物では視線の方向は左から右へ、そして上から下へ進められなかればならない、という理由からこのルールを用いています。こうすることによって、シンボルの配列が水平方向の方が容易にレイアウトできるという利点もありました。*2,P164
棒グラフなどは、数値が下から上へ伸びる方が(縦棒グラフ)一般的に見えますが、アイソタイプの場合は、このような数学的座標空間に従うというよりは、前述の文字言語の読み方(左から右へ読む)を念頭に置いていたことがわかります。ただし「高さ」が主題になる場合は、例外として時間軸は横方向(X軸)に取るとしています。

○比較するものが国地域の場合。地図的分布を考慮した配置にする

欧州を中心とする場合、一列に表示するなら(米国・カナダ、中南米、欧州、アフリカ・南アジア・オーストラリア・ソ連(当時)、極東)と決めています。ノイラートは各項目を大きさ順で並べることはアイソタイプのルールには反していると述べています。なぜならそれは数量の減少を示しているように見えてしまうからだと言うからです。*1p88
また国以外の場合でも空間を壊してまで、数量順にすることは避けています。

○地図を表示する時、メルカトル図法は用いない

これはシンボルの理念と同じ理由で歪みを避けるためです。メルカトル図法だと南北に行くに従い極端に面積が歪んでしまうため、地図の表示にはそうした歪みの少ないエケルト図法で対応しています。

○二つ以上の異なる種類のモノが互いに関係を持つ場合の配置
これにはいくつかのパターンがあります。
その1:一つの軸を起点に右方向と左方向それぞれに並べて行きます。
「米国とその他の国で生産される自動車について」この場合、左方向に"米国"の自動車生産数、右方向に"その他の国"の自動車生産数を並べます。

その2:一方の数量が他方よりもどれだけ大きいかが重要なときは、一方の項目をもう片方の到達点から逆方向に並べていきます。
「各国地域における移住者の出入数」について並べるとすると、右方向に「他国への移住数」を並べて行き、その到達点(最大数)から「自国への移住数」を逆方向に並べて行きます。二項目の差が大きい場合、プラス方向またはマイナス方向に大きく傾く統計が出ます。この場合、どちらにどのくらい振れているのかが二項目を同じ方向に並べた時よりも印象に残りやすいものになります。

また、このようなパターンを考え決定していく仕事がトランスフォーマーの役割でした。

○棒や折れ線、円などの図形との関係性
一般的に使われる、点、線、円、長方形などの幾何学図形と合わせて使うこと、またはそれのみを用いることをノイラートは勧めてはいません。なぜならこういった図記号で対象を比較するときは、どちらが大きいかといったことが理解できても、どのくらい大きいのかといったことを読み解くことは困難だからだと言います。ただその中でも折れ線グラフはこういった幾何学図形の中でも価値が高い方だと語っています。というのも折れ線グラフは頂点を結ぶので、変化がわかりやすいのに加え、大まかな内容を掴むことも、詳細な細部を知ることもできるからだというからです。例では円図形をその大きさではなく数量として使用し、簡易的なアイコンの役割をさせています。

○展示フォーマット
博物館の仕事において展示方法は肝心な検討項目です。例えば、展示パネルの大きさや、どのような並びでレイアウトするのかといったところ、そして全体の導線の確認などです。
「ウィーン社会経済博物館」では、フックで固定された木の薄い壁を配置し、必要に応じていつでもレイアウトを変化させることができ、壁に取り外し可能なレールを張り、道具を使わなくても、一定の高さに図表を並べられるようにしていました。各図表サイズも、126cm x 126cm と決められており、中心は床から150cmの高さに保たれています。これは一般的な人の目線に合わせてのことです。もっと小さい図表の場合はグループにして126cmにまとめられ、図表の下90cmは空けておき、机を置いて本などの展示物を配置できるようにしていました。

Source: http://www.samstaginderstadt.at

アイソタイプのコア、トランスフォーメション

前述したようにアイソタイプの普及とともに、類似した図象統計いわゆる模倣品が多く出回り始めました。
ノイラートはこういった模倣品の多くを批判的に見ていました。なぜならアイソタイプの制作には常に、経験から来る判断が必要だと語っているからです。
そしてこの経験の中でも、最も比重が大きいのがトランスフォーメーション作業でした。

しかしトランスフォーメーションを具体的に説明するのは難しいことです。なぜならノイラート自身が説明困難な経験則的なものだと語っているからです。それでもノイラートがトランスフォーメーションの特徴について語った時はあります。

一例としてノイラートはトランスフォーメーションとは「文体」のようなものだと表現しています。これは「文法」という用語に対比させています。規則の集合(トランスフォーメーション以外の部分)を「視覚文法」と呼ぶのに対して、それらの規則とは外れた、高度な技法によって生み出されるものを「視覚文体」と位置付け、トランスフォーメーションはこのアイソタイプの文体的次元を生み出す、技法に他ならないと説明しています。文法を知っていても、文体は人それぞれ異なります。この文体をうまく表現することが、トランスフォーマーに求められる技能で、うまく表現するためには経験を積むしかないと考えていたため、先ほどの経験則的なものという考えがあったのです。

また、一般的に、制作ルールを決めた場合デザインが一辺倒になり、互いに似通ってしまうものになりがちですが、そうした問題点もトランスフォーメーションの柔軟な対応によって回避できると考えていました。

実際にトランスフォーマーとして仕事をしていたマリー・ノイラート(ライデマイスター)は自身の仕事についてこう語っています。

トランスフォーメーションはことばや数値データから本質的な事実を引き出し、画像のかたちにするために発見すべき方法であり、データを理解し専門家からすべての必要な情報を得て、公衆に伝達する価値のあるものを決定し、いかにそれを理解可能にして、いかに一般的な知識や他のチャートですでに用いられている情報と結びつけるかーこれらがトランスフォーマーの責務である *2,P171

現在でいうところの、専門家と通じる知識と編集者としての状況判断としての広い視野、デザイナーとしての柔軟な視覚芸術性を併せ持つ人というところでしょうか。
いずれにしても、ノイラートはトランスフォーメーションがアイソタイプをアイソタイプにするための作業だと考えていました。

ルドルフ・モドレイとの関係

アイソタイプを作り上げたメンバーで紹介した、ルドルフ・モドレイについてもう少し補足したいと思います。

Source: https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Modley

モドレイは1906年、ウィーンに生まれています。ウィーン大学で法学を学んでいた1928年の在学中、パートタイム職員としてウィーン社会経済博物館に雇用されました。2年後の1930年、大学を卒業したモドレイはシカゴへの移住を計画します。当時ノイラートはウィーン経済博物館の活動の場を、国際的に広げて行こうとしていた時期です。もちろん博物館の活動と合わせて、ウィーン・メソッド(アイソタイプ)をアメリカへ売り込んで行こうとも考えていました。そこにモドレイがアメリカへ移住するという知らせです。ノイラートにとっては、まさに渡りに船だっとと言えるでしょう。ほどなくノイラートはモドレイに博物館の仕事を請け負うアメリカ支部としてのポジションで仕事を依頼しました。
シカゴへと渡ったモドレイはすぐにウィーン経済博物館が受けたシカゴ科学産業博物館との仕事をはじめます。しかしこの最初の仕事からモドレイのやり方はノイラートが期待していたものとはかけ離れたものでした。モドレイは自身のやり方に基づいた一方的なディレクションを行いはじめたのです。そのディレクションはノイラートが求めたウィーン・メソッドに基づく制作工程とは正反対の作業だったとのちにノイラートは回顧しています。ノイラートはモドレイのディレクションについて手紙で抗議し、改善を求めていますが、双方が歩み寄ることはありませんでした。このまま協力関係を築き続けるには限界があり、1932年に博物館の財政危機による部門の閉鎖に伴いモドレイも解雇されることとなります。
ここからモドレイは独立し、自身で図象統計の活動を始めます。この時すでにアメリカではノイラートのアイソタイプを真似た模倣品が多く出回っており、モドレイはその模倣品をうまく批判しつつ、ノイラートとも異なった見解で図象統計の有効性を説いていきます。具体的に彼はノイラートのアイソタイプを一定の部分理解を示しつつも、アイソタイプが真似ることの難しい閉鎖的な部分があると主張して、その標準化の難しさを批判しました。またモドレイはアイソタイプではその技法の一つの項目でしかなかった、シンボル(ピクトグラム)に着目し、国際的な統一化を図ろうと考え、シンボル標準化を目指していました。その後、アメリカにおいてモドレイは、ノイラートと近しい良識のある意見者として受け入れられ、デザイナーとして成功を収めます。図象統計に関する仕事は次第に裏方に回ることになりますが、シンボルの標準化という熱意は最後まで冷めることはなく晩年までシンボル(ピクトグラム)の標準化のための辞典作成プロジェクトにいくつか携わっています。その中の一つにはマリー・ノイラートと共にシンボル辞典プロジェクトを行なっていた時期もあります。念願叶って出版された著書は、現在日本語[Amazon.jp]でも見ることができます。

一方のノイラートのアメリカ進出は大恐慌や戦争のあおりを受け、本腰を入れられないまま時間だけが過ぎて行き、体制が整った時にはすでにモドレイがアメリカで確固たる地位を築いていたため、改めてアイソタイプが求められる状況ではありませんでした。

ノイラートが日本に与えたもの

日本では1960年代初頭にグラフィックデザインの領域でアイソタイプが注目を集めました。そこには前回の「ピクトグラムをその始まりから考えてみる」の項で紹介した勝見勝氏がアイソタイプについて言及した日本宣伝美術会の記事が大きく影響しています。
勝見氏は当時の状況がアイソタイプを必要としていることをこう説明しています。

今年の日宣美展を見ると、図表、統計表のような、人間の思考の視覚化、そのグラフィックな関心が、かなり目に付くようになってきた。筆者なども、各種の教科書の編集にたずさわるとき、この分野の適切なデザイナーを見出すのに、かねて苦しんできたのである。ウィーンのノイラートが、国際的な記号言語として「アイソタイプ」を提唱し、二千以上のシンボルを含む、ヴィジュアル・ディクショナリーを編纂したのは、1920 年代のことであった、その後、彼の視覚の文法は、各種の統計図表に利用され、最近では子どもの絵本や百科事典の類まで、ひろくとりいれられている。この点、わが国のグラフィック・デザイン界は、ノイラートたちが、3 、40 年前に当面していた問題と、ようやくとりくむ風潮がおとづれてきたといえる。 *2,P171

日本にもアイソタイプの情報はかなり前から入ってきていましたが、このように、勝見氏が改めて取り上げたことで多くのデザイナー達の目に止まることになります。世界での交通標識国際標準化の動きや、日本でのオリンピック開催、国際空港(成田空港)の整備などで、国際的な視覚デザインが熱を帯びていたこの時代に、ノイラートのアイソタイプはあらためて見直されたのです。
日本のデザイン界では、亀倉雄策、木村恒久、田中一光などが、この時期にアイソタイプに関して言及しており、視覚言語の概念を取り入れようと試みていることが記録に残っています。

その中でも形として大きく表れたのは、東京オリンピックの競技ピクトグラムでした。競技ピクトグラムを担当した中心人物の一人、山下芳郎氏は依頼を受けた時期、ちょうどノイラートのアイソタイプに魅せられていた頃だと回想しており(*2,P240)、実際、東京オリンピックのピクトグラム作成において掲げた方針(*2,p242)は

・視覚言語の言語にこだわる事。その為には個性的・趣味的な形態をとってはならない。
・それぞれの競技が持つ決定的な特徴を表現する事。その為にはモデュールの方法を取ってはならない。
・単純明快にこだわる事。その為に補助的な形態は必要以上採ってはならない。

この3つだったと言います。これらの考え方はアイソタイプとも共通するところであり、多くの考えが共有されていたことが想像できます。


Source:日本デザインセンター

アイソタイプはすでに誕生から30年ほどが経過しており、最新の技法ではありませんでしたが、視覚言語の先駆的考えという位置付けだけでなく、その理念は情報デザインの本質的なものであるという認識で日本では受け入れられました。ですからそこには、具体的な表現の踏襲というよりもアイソタイプの理念をデザインアイデアの源泉と考え、そこから新しいデザインを探っていこうとしていました。

アイソタイプの目指したもの

ノイラートはアイソタイプシステムを活用する場として有効なのは、教育分野の最初の段階だと述べています。また逆に科学の高度で複雑な領域とは相性が悪いとも認識していました。

その理由の一つとして「アイソタイプ」は容易に記憶することができるように、細部を省略することを優先している、という点が挙げられます。

容易に記憶できる絵を作るには、多くの細部を省略する必要がある。ー中略ー 想像されるように、統計学者はこのようなことを聞く耳を持とうとしないだろう。全てをできるだけ正確に勘定し、計測するのが彼らの仕事の一部だから。彼らは、自分たちが示した正確な数値を万人が覚えること、その困難さに耐えることを要求する。反対にウィーンの学校では、単純化された絵を覚える方が正確な数値を忘れるよりもましであると仮定するのである。  *2,P165

ノイラートはこのように語り、厳密さにこだわるのではなく記憶されることが教育の初期段階では重要だと訴えていました。アイソタイプの目指していた方向性がこういった初頭教育の分野であったことは、ノイラートの没後、アイソタイプ研究所を継いだマリーの主要な仕事が、子供向けの科学絵本であったことからも確認できます。

1900年代前半、戦乱のヨーロッパで多くの困難に直面したノイラートは、その逆風の中でも確かな足跡を残し、とりわけデザインの分野では「アイソタイプ」のコンセプトが、情報デザインやピクトグラムのアイデアの源泉として、影響を与えてきました。ただそういった解釈の「アイソタイプ」はノイラートが行いたかった一つの側面でしかありません。道半ばで亡くなってしまったため、ノイラートの活動を垣間見ることさえ難しいですが、こうやって調べて見ると「ウィーン学団」や「マルクス主義」、「戦争経済」、「博物館構想」、「ムンダネウム」、「ベーシックイングリッシュ」といった、ノイラートを取り囲む環境や思想の一つの答えとして、「アイソタイプ」は存在しているのだと感じます。


参考文献
*1 " ISOTYPE「アイソタイプ」" - オットー・ノイラート / amazon.jp
*2 "アイソタイプからピクトグラムへ(1925-1976) :オットー・ノイラートのアイソタイプとルドルフ・モドレイによる図記号標準化への影響に関する研究" - 伊原, 久裕 / CiNii
"インフォグラフィックスの潮流: 情報と図解の近代史" - 永原 康史 / amazon.jp
"シンボルの原典" - H. ドレイファス, 八木 酉(訳) / amazon.jp
"Atlas Gesellschaft und Wirtschaft" / libcom.org
"オットー・ノイラートにおける物理主義と経済科学" - 桑田 学 / CiNii


参考サイト
"オットー・ノイラート" / Wikipedia(JP)
"Otto_Neurath" / Wikipedia
"Marie Neurath" / Wikipedia
"Rudolf_Modley" / Wikipedia
wirtschafts museum
GERD ARNTZ web archive